四街道市の概要
四街道市は、千葉県の中央部に位置し、南と西を千葉市、北と東を佐倉市が隣接しており、市の東部を鹿島川が印旛沼へと北流しています。また、市内を広域幹線道路の国道51号線、東関東自動車道が縦断し、都心から50キロ圏内、千葉市からも8キロのところにあります。このように交通網が発達し利便性が高いJR四街道駅周辺は、高層マンションや住宅地が立ち並び、首都圏のベッドタウンとして発展してきました。その一方、同市は、豊かな農地や緑の環境もあり、梨や落花生などの生産が盛んな近郊農業地帯でもあります。
四街道のあゆみ
四街道には、今から約3万年前の旧石器時代に作られたとされる池花南遺跡が見つかり、火を使った跡、石器の加工品、ナイフ形石器の一種や石器の斧などから、人々の生活の様子がうかがえます。
木戸先遺跡では、大量の縄文時代前期の土器が出土し、さらに台地の縁辺部に数軒の竪穴住居跡が発見され、遺跡の中央部からは約200基以上の墓穴が発見されました。また、同市には、縄文の人々が食べていたものを捨てたとされる八木原貝塚があり、海や湖から獲ってきたハマグリやタイなどの魚介類、山で捕らえたシカやイノシシなどの骨が発見されています。さらに、鹿島川とその支流である小名木川を臨む台地上には、弥生時代の遺跡が確認され、多くの遺跡で発掘調査が行われました。これらの遺跡からは、弥生時代中期の終わり頃の住居跡が発見されています。
平安時代には、四街道は下総国千葉郡に含まれており、7つの郷に分けられていました。このうちの「山梨」郷、「物部」郷がほぼ現在の四街道市にあたるものと考えられています。中世を迎えるころには、竪穴住居は最近までの農家に似た高床住宅や平地住居に変化し、村は集落として山を背にしたところに営まれるようになりました。そして、同地域では下総千葉氏を中心とした武将たちの支配下に入りました。
戦国時代には、かつて千葉氏の一族であった臼井氏一族が、本佐倉城(酒々井町)を本拠とする千葉氏本家と争っていました。そのため、鹿島川沿岸には多くの城跡が見られます。天正18年(1580年)、豊臣秀吉は天下統一をかけて、関東最大勢力を誇る北条氏を攻撃(小田原攻め)し、北総を支配していた千葉一族は北条氏に味方して、小田原城に籠城しました。同年、留守を狙うかのように北総一帯に豊臣方の武将が侵入し、千葉一族の諸域は次々に陥落していきました。関東一円は徳川家康の支配下に入ることとなり、年貢米は、佐倉藩に納めたほか、千葉港から江戸にも運ばれていたようです。
第一次大戦前、四街道の町は軍都として機能していました。この一帯は下志津原と呼ばれ、佐倉藩の砲術練習所が置かれていました。その後、明治19年(1886年)に「陸軍砲兵射的学校」が創立されましたが、終戦と同時に軍は解体され、現在は「陸上自衛隊下志津駐屯地」(千葉市)だけが残されています。その他の旧陸軍施設跡地は、宅地・行政・文教・商業施設などに転換され、昭和30年(1955年)には、千代田町と旭村が合併し、四街道町が誕生しました。その後、昭和40年代前半から旭ヶ丘グリーンタウン・千代田団地・みそら団地などの大型団地が造られ、首都圏のベッドタウンとして急速に人口が増加するとともに、自然と都市機能が調和したまちとして成長しました。そして、昭和56年(1981年)に市制が施行され、四街道市として新たな歩みを始めました。
四街道の名前の由来
四街道の由来は、四街道駅から西に500メートルほどの場所(現在の四街道十字路)に「北 成田山道」「南 千葉町道」「東 東宇がね(東金)道、馬渡道」「西 東京、船橋道」と掘ってある駒形方形の道標石塔が建っています。そこに現在の成田街道、佐倉街道が交わり、4つの街道が交わっている事から「四ツ街道」→「四街道」という地名が付いたそうです。
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| 四街道の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓ |
四街道市消防資料館 |
| 住所: |
〒284-0032
千葉県四街道市吉岡474 [地図を見る] |
| 電話番号: |
043-432-2621 |
| 開館時間: |
9:00〜16:30 |
| 休館日: |
月曜、火曜、祝日、年末年始 |
| 入館料: |
無料 |
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